What you’ll learn
- アンカリング効果とは、最初に提示された数字がその後の判断を無意識に左右する現象
- ワインと無関係な社会保障番号の下2桁でさえ、購入希望価格に影響を与える
- 裁判官のサイコロ実験では、専門家の判断も無関係な数字の影響を受けうることが示された
- 価格設定や交渉の場面で、アンカリング効果は日常的に機能している
- 無関係な数字を意図的に設定することで、既存のアンカーから距離を取りやすくなる
iPhone Xの999ドルという価格を見た後に、549ドルのiPhone 7を見る。高いはずのiPhone 7が「安い」と感じてしまう。この現象には名前があります。「アンカリング効果」です。
最初に提示された数値がアンカー(錨)の役割を果たし、その後の判断を無意識に左右する現象を指します。合理的に考えているつもりでも、脳は最初の数字を基準点にしてしまうのです。
拙著『行動経済学が最強の学問である』では、人間の非合理な意思決定を「認知のクセ」「状況」「感情」の3つに分類しています。アンカリング効果は「状況」に属する概念です。個人の性格や感情ではなく、その場に提示された数字が判断を変えてしまいます。
この記事では、アンカリング効果の仕組みを実験で確認した後に、ビジネスへの応用と、自分自身のアンカーを外す方法までを解説します。
アンカリング効果の仕組み – ワインと社会保障番号の関係
アンカリング効果(Anchoring Effect)とは、最初に提示された数値が基準点となり、その後の判断に強い影響を与える心理学的な現象です。プロスペクト理論と密接な関係を持つ理論でもあり、認知バイアスの代表的な例のひとつです。
この仕組みをよく示す実験があります。ストックホルム商科大学のオスカー・バーグマンが行ったワインの実験です。被験者にあるワインを見せ、「いくらで買うか」を尋ねました。
ただし質問の前に「このワインをXドルで買いますか?」と聞きます。このXには、被験者の社会保障番号(日本のマイナンバーのようなもの)の下2桁が入ります。
下2桁が20の人には「20ドルで買いますか?」、95の人には「95ドルで買いますか?」と聞くのです。当然、高額すぎれば「買いません」と答えます。
その後「では、いくらなら買いますか?」と尋ねると、驚くべき結果が出ました。下2桁の数字が大きい人ほど、最終的な購入希望価格も高くなったのです。
ワインとは無関係なランダムな数字に過ぎません。それでも人は、最初に目にした数字に引きずられます。
この実験ではワインだけでなく、同じく価格のわかりにくいアートでも同様の結果が確認されています。ワインやアートのように価値の基準があいまいな商品ほど、アンカリング効果の影響を受けやすいと言えるでしょう。
一方で、価格をよく知っている商品では影響が弱まりやすい傾向があります。毎日買うコーヒーのように相場観が確立している場合、アンカーの効力は限定的になります。
裁判のプロでさえ逃れられない – サイコロ実験の衝撃
「アンカリング効果はわかったけれど、私は大丈夫」。そう思う人も少なくありません。責任ある仕事に就き、日々意思決定をしている人ほど、自分は合理的だと考えがちです。
しかし、プロフェッショナルであっても影響から逃れられないことを示した実験があります。ドイツのケルン大学バーテ・イングリッチらの研究です。
被験者は裁判官たち。まず「連続万引き犯の事件」の調書を読んでもらいます。その後、全く関係のないアンケートの一部として、裁判官を2グループに分けてサイコロを振ってもらいました。
サイコロには細工がされています。グループAは1と2しか出ず、グループBは3か6しか出ません。出た数字の合計を書き留めた後に、先ほどの連続万引き犯の刑期を決めてもらいました。
結果、グループAの裁判官は平均「懲役5ヶ月」。グループBは平均「懲役8ヶ月」でした。同じ事件、同じ証拠、同じ被告人です。サイコロの数字だけで3ヶ月もの差が開きました。
後から「サイコロの数字が判決に影響しましたか?」と尋ねると、裁判官たちは「そんなことはあり得ない」と答えました。しかし、影響がないなら数字に差は出ないはずです。
公平であるべきプロの裁判官でさえ、無意識にアンカリング効果を受けていた。この事実は、アンカリング効果がいかに深く意思決定に入り込むかを示しています。
重要なのは、裁判官たち自身がその影響を自覚していなかったという点です。アンカリング効果は、影響を受けている当人には見えにくい。だからこそ、その存在を知っておくことに意味があります。
ビジネスにおけるアンカリング効果の実例
ビジネスの現場では、アンカリング効果が価格設定や購買意思決定、交渉の結果を日常的に左右しています。
価格設定 – 最初の数字が「お得感」を決める
冒頭で触れたiPhoneの例を思い出してください。999ドルのiPhone Xを見た後に、549ドルのiPhone 7が安く感じる。これがアンカリング効果の典型です。先に高い価格が印象として刷り込まれることで、後の価格の評価基準が変わるのです。
Amazonも同様の戦略を展開しています。セール中の商品に定価からの値引き額と割引後の価格を並べて表示することで、定価がアンカーとなり、割引価格がとても安く見えるのです。実際にその価格がお得かどうかの保証はないのに、つい釣られてしまいます。
こうした手法は拙著でも紹介している通り、おとり効果やデフォルト効果など、他の行動経済学の理論と組み合わせて使われることが多い戦略です。アンカリング効果単体で見るよりも、複数の理論が絡み合っている点を意識すると、ビジネスへの理解が深まるでしょう。
交渉術 – 先に数字を出した方が有利
交渉の場面でも、アンカリング効果は大きな役割を果たします。
例えば、80万円の予算を確保したい場面を考えてみましょう。最初に「100万円必要です」と提示し、次に「ここを削れば80万円で収まります」と交渉します。100万円というアンカーが、80万円を「かなり抑えた金額」に見せるのです。
コロンビア大学のアダム・ガリンスキーらが行った実験も興味深い結果を示しています。ノースウェスタン大学のMBA学生が「架空の製造工場」の譲渡価格について交渉しました。
売り手が先に価格を提示した場合、合意価格の平均は260万ドル。買い手が先に提示した場合は200万ドルでした。先に数字を出した側が有利になり、3割もの差が生まれたのです。
005(行動経済学×日常生活の例)の記事で述べた通り、判断は日常の場面で繰り返しバイアスの影響を受けています。交渉においても、最初の数字が全体の着地点に強い影響を与えます。
人事評価 – 過去の自分がアンカーになる
アンカリング効果は価格や交渉の場だけでなく、人事評価の場面にも影響を及ぼします。
たとえば、入社3年目の部下を評価する場面を想像してください。上司が無意識にアンカーとして使いやすいのは「自分が3年目だったときの成績」です。プレイヤーとして優秀だった上司ほど、この傾向が強まります。
自分は入社3年目で月に20件の契約を取っていた。だから部下にも同程度の成果を期待する。一見すると合理的な基準に思えます。しかし、当時と現在では市場環境やチーム構成、担当エリアが異なります。単純に比較できる数字ではないのです。
過去の自分という強烈なアンカーが、部下の成長段階や現在の業務環境を正当に評価することを妨げてしまいます。評価者研修やフィードバックの場でも繰り返し指摘されるテーマですが、「自分基準」を手放すことは容易ではありません。
その理由は、実体験に基づくアンカーの強さにあります。ワインの実験で使われた社会保障番号の下2桁は完全にランダムな数字でした。しかし「自分が実際にやった成績」は実体験に裏打ちされているため、アンカーとしての固定力がさらに強くなります。「自分にできたことは相手にもできるはず」という確信が、数字をより強固な基準点にしてしまうのです。
部下の評価だけでなく、プロジェクトの工数見積もりや新規事業の目標設定でも同じことが起こりえます。「前回のプロジェクトでは3ヶ月で完了した」という記憶が、全く条件の異なる次のプロジェクトの見積もりを左右する。こうした場面では、ワインの実験と同じ構造が働いていると考えるとわかりやすいでしょう。
対策としては、評価や見積もりの前に複数の基準を意識的に並べることが有効です。同期の平均値、業界の標準、部下自身の前年比。複数のアンカーを併置することで、特定の数字への固定を和らげることができます。ひとつの基準に頼るのではなく、複数の視点から数字を眺める習慣がアンカリング効果と上手に付き合うための出発点です。
このように、アンカリング効果はビジネスの現場で価格設定から交渉、人事評価に至るまで幅広く作用しています。どの場面でも共通しているのは「最初に接した数字が判断の土台になる」という構造です。
自分のアンカーを外す方法
アンカリング効果の影響力を知ると、「自分も無意識にアンカリング効果を受けているかもしれない」と不安になるかもしれません。そんなときに使える方法があります。
拙著で紹介しているのは、あえて全く関係のない数字を設定してみるというアプローチです。
例えば、「パワーポイントで重要な年度予算の資料を作る」というとき、無意識のうちに頭の中にアンカーがあります。「以前は1週間かかった」「同僚は10日で作った」。こうした過去の数字が、今回の見積もりにも影響を与えているのです。
しかし、プレゼンの内容や目的が全く違っていたら、そのアンカーは妥当ではありません。そこで「今日は1月5日だから5日間でできるかな」「私は7月生まれだから7日かかるかな」など、あえて全く関係のない数字を当てはめてみます。
これは一見おかしな方法に思えるかもしれません。しかし、無作為に選んだ数字を意図的にいくつか当てはめることで、過去のアンカーから距離を取りやすくなります。納期、予算、人員配置。どのような場面でもこの手法は応用できます。
もちろん、これだけでアンカリング効果を完全に排除できるわけではありません。しかし「自分には何らかのアンカーがあるはずだ」と意識し、それを相対化する試みを持つこと自体に意味があります。
ビジネスの場面であれば、意思決定の前に「この判断に影響しているアンカーは何か」をチームで共有することで効果があります。裁判官の実験が示す通り、影響を自覚しているだけでは不十分です。しかし複数の人がそれぞれの視点でアンカーを指摘し合えば、一人では気づきにくい影響を浮き彫りにできます。
まとめ – アンカリング効果を知ることで何が変わるのか
アンカリング効果の理解は、消費者としてもビジネスの実践者としても重要な視点をもたらします。
消費者の視点では、最初に提示された数字を無批判に受け入れない意識が大切です。不動産の購入や給与交渉の場面で「なぜこの数字が提示されているのか」と問い直すことが、判断の質を高める手がかりになります。
ビジネスの視点では、基準点の設計がいかに重要かが明確になるでしょう。アンカーを適切に利用するメリットは、顧客の判断や交渉の結果を望ましい方向へ導ける点にあります。
プロスペクト理論の記事で解説した通り、人間は獲得と喪失に対して非対称な反応を示します。行動経済学×マーケティングの記事では、心理がビジネスの現場でどう作用するかを紹介しました。アンカリング効果は、これらの現象と密接に関わる仕組みです。フレーミング効果のように情報の提示方法が判断を変えるのと同様、最初に接する数字が意思決定の枠組みを決定づけます。
最初の数字が判断を左右するという事実は、不安に感じるかもしれません。しかしこのメカニズムを知ることで、自分の判断に対してより自覚的になれるでしょう。
FAQ
よくある質問
Qアンカリング効果は意識すれば回避できますか?
完全な回避は困難です。裁判官の実験が示す通り、専門家でも無意識に影響を受けます。ただし「最初の数字に引きずられている可能性がある」と意識するだけでも、判断の質は改善される傾向があります。
Qアンカリング効果はどんな場面で特に注意すべきですか?
価格がわかりにくい商品の購入、給与交渉、予算の承認など、「相場」が不明確な場面ほど影響が大きくなります。逆に毎日購入するコーヒーのような、価格を熟知している商品では効果は限定的です。
Qビジネスでアンカリング効果を活用する際の注意点は?
基準点の設定は有効なツールですが、非現実的な数字を提示すると信頼を損なう可能性があります。適切な範囲のアンカーを設定し、その後の提案に合理的な根拠を添えることが重要です。なお、定価と割引価格を並べる二重価格表示は、景品表示法の規制対象となる場合があります。実務での活用にあたっては専門家にご確認ください。
Qアンカリング効果を自分で外す方法はありますか?
拙著では、あえて無関係な数字を複数当てはめてみる方法を紹介しています。「今日は5日だから5日間」「7月生まれだから7日」のように無作為な数字を意図的に設定することで、過去のアンカーから距離を取りやすくなります。
Qアンカリング効果とおとり効果はどう違いますか?
どちらも「状況」が判断を変えるという点で共通しますが、仕組みが異なります。アンカリング効果は最初に提示された数字が基準点になる現象。おとり効果は、選ばれにくい選択肢を加えることで、意図した選択肢を引き立たせる手法です。拙著では両方の違いと組み合わせについて詳しく解説しています。






