What you’ll learn
- 現状維持バイアスの意味と、有利な選択肢が提案されても今のままを望んでしまう傾向
- 本人が合理的に判断していると思い込みやすく、変えない理由を後づけで並べてしまうこと
- イスラエルの裁判所の仮釈放審問1,100件の分析で、朝一番は65%が認められ、昼に近づくほど認定率がゼロに近づいた結果
- 決定疲れで判断が単純化され、リスクの少ない現状維持に傾いていくという仕組み
- 電子署名ソフトに役員が難色を示しながら、使い始めると「なぜもっと早く導入しなかったのか」という声が出た事例
メルマガ読者のみなさん、こんにちは。
行動経済学者の相良奈美香です。
スマホの料金プランが、5年前のまま。金利のいい金融商品があるのに、定期預金に入れたまま。「変えた方が得かも」と思いながら、つい今のままを選んでしまう。
こういう経験、ありませんか?
今日は「現状維持バイアス」のお話です。
「このままでいい」を選んでしまう心理
現状維持バイアスとは、自分にとって有利になる選択肢が提案されても、「このままでいい」と現状維持を望む傾向のことです。1988年に提唱されて以来、行動経済学の代表的なバイアスの一つに数えられてきました。
例えば、今住んでいるマンションを売って、一戸建てに転居するか迷っているとします。「一戸建ては値段が高いし、引っ越しにお金もかかる。マンションのリフォームもしたのに、あえて引っ越さなくても……」。こう考えて、結局今の家にとどまり続ける。これが現状維持バイアスです。
このバイアスには、見逃されやすいという特徴があります。本人が「合理的に判断している」と思い込みやすいんです。「今のままで困っていないから」とか「変えるリスクの方が大きいから」と、後あとから理由をつけて、変えない選択を正当化してしまう。変えない理由が並ぶと、頭の中では検討が済んだように感じられます。ただ実際には、「変える」という選択肢を最初から避けているだけ、というケースも少なくありません。
疲れた脳は「変えない」を選ぶ
現状維持バイアスの働き方がよくわかる調査があります。イスラエルの裁判所で行われた、仮釈放に関する分析です。
この調査では、同じ刑務所で仮釈放を出した1,100件の審問を分析し、判断が時間帯の影響を受けるかを調べました。仮釈放を認めるかどうかは裁判官が決めますが、審問の順番は一日を通してランダムです。ところが、仮釈放が認められやすい時間帯が1日に3回あるとわかりました。朝一番では、65%の囚人が仮釈放を認められています。そこから昼に近づくにつれて認定率は下がり、ゼロへと近づいていきます。ランチ休憩を挟むと再び上がり、また下がっていく。午後の休憩後にも同じことが起きて、1日に「3つの山」ができていたのです。
背景にあるのは「決定疲れ」です。日中にたくさんの判断を重ねると、脳は疲れて、質の高い決断がしにくくなっていきます。繰り返し判決を下すうちに、裁判官の判断は単純化されていく。そして「もうしばらく刑務所に入れておく」という、リスクの少ない現状維持の選択に傾いていったのだろうと、研究者たちは考察しています。
これは裁判官に限った話ではないですよね。午後や夕方の会議で「次回に持ち越し」が増えるのも、決定疲れの影響と考えられます。「大切なことは朝考える」と話すエグゼクティブが多いのは、時間帯という「状況」の影響を知っているからなんですね。
「なぜもっと早く導入しなかったのか」
組織の意思決定にも、現状維持バイアスはよく現れます。私の著書『行動経済学が最強の学問である』でも取り上げた例があります。
ある会社では、取締役会の議事録を役員に郵送して、捺印してもらう作業に2週間もかけていました。そこで、オンラインで確認してサインもできる電子署名ソフトを導入しようとしたところ、役員たちが難色を示したのです。「紙でないとしっかり読めない」とか「文書は紙ベースでしっかり残しておくべきだ」という意見が出ました。
ところが実際に導入してみると、特に不都合はありませんでした。確認が一瞬で済むようになり、「なぜもっと早く導入しなかったのか」という声すら出たほどです。
役員たちの判断の裏では、現状維持バイアスに加えて「損失回避」も働いていたと考えられます。損失回避が働くと、新しい選択肢のメリットよりデメリットに目が行ってしまいます。頭では利点がわかっていても、「変える」ことへの抵抗がそれを上回ってしまうのです。
提案が通らないときに起きていること
この心理は、商品やサービスを提供する側にとっても無視できません。どんなに優れた新サービスでも、顧客にとっては「今のやり方を変えること」自体がハードルになります。機能や価格を磨いても提案が通らないとき、壁になっているのは相手の中の現状維持バイアスかもしれません。人は提案の中身を検討する前に、「変える」という段階でブレーキをかけている場合があるからです。
行動経済学を学ぶと、こうした「変えたくない」心理を、人間に本来備わっている性質として説明できるようになります。そして、説明がつけば、次の一手も考えやすくなる。商品づくりでも、社内の提案でも、この視点は大きな助けになるはずです。
もし「このままでいいか」と迷う場面が来たら、その理由が後づけになっていないか、一度疑ってみてください。
FAQ
よくある質問
Q現状維持バイアスとは何ですか?
自分にとって有利になる選択肢が提案されても、このままでいいと現状を望む傾向です。1988年に提唱されて以来、行動経済学の代表的なバイアスの一つに数えられてきました。今のマンションにとどまり続ける判断のように、暮らしの選択にも現れます。
Q判断が時間帯に左右されるというのは本当ですか?
イスラエルの裁判所で、同じ刑務所の仮釈放審問1,100件を分析した調査があります。朝一番では65%の囚人が仮釈放を認められ、昼に近づくにつれて認定率はゼロへ近づきました。休憩を挟むと再び上がり、1日に3つの山ができていました。研究者たちは決定疲れの影響と考察しています。
Q現状維持バイアスは仕事にどう関わりますか?
優れた新サービスでも、顧客にとっては今のやり方を変えること自体がハードルになります。機能や価格を磨いても提案が通らないのは、相手が変えるという段階でブレーキをかけている場合があるからです。取締役会の議事録を電子署名に切り替えた例では、あとから「なぜもっと早く導入しなかったのか」という声が出ました。





