私は2013年当時、シェロモ・ベナルチの下でコンサルタントをしていました。ベナルチはセイラーと共に「Save More Tomorrow(スマート)プラン」を進めていた研究者です。ナッジが現場でどれほど人を動かすかを間近で見てきた経験から、この記事をお届けします。
ナッジ理論とは — 「軽くつつく」だけで行動が変わる仕組み
ナッジ理論とは、強制や金銭的インセンティブを使わずに、選択肢の見せ方や環境の設計を工夫する行動経済学の考え方です。それによって人々を望ましい行動へ自然に導きます。
ナッジ(nudge)の英語の意味は「肘で軽くつつく」、あるいは「そっと背中を押す」。ちょっとした働きかけで人を動かす点が、この理論の特徴です。拙著『行動経済学が最強の学問である』でも、ナッジを次のように紹介しました。「ちょっとしたことを変えただけで、さりげなく促し、人々に影響を与え、行動を変えられる」働きかけだ、と。
なぜナッジが必要なのでしょうか。伝統的な経済学は、人間を合理的な存在と捉えてきました。情報を与えれば最善の判断をするだろう、という前提です。ところが現実の人間は、面倒なことを避けたり、目先の損得に流されたりするでしょう。選択肢が多すぎて決められないこともあります。「正しいとわかっていても動けない」場面が、たくさんあるのです。
ナッジは、そうした人間の非合理さを前提にした設計です。本人が望ましい方向に進めるようにそっと後押しします。本人の自由は損なわれず、別の選択肢を選ぶこともできます。書籍ではナッジを、軽くちょっとつつく程度の自然な方法で、人々を望ましい方向へ誘導するという考え方として紹介しました。これがナッジの核心です。
行動経済学を実際にビジネスへ取り入れたい方は、行動経済学とはの記事もあわせてご覧ください。
ナッジ理論の提唱者リチャード・セイラー
ナッジ理論を確立したのは、経済学者のリチャード・セイラー。2017年にノーベル経済学賞を受賞しました。
セイラーは、ダニエル・カーネマンが1979年に発表した「プロスペクト理論」を経済学にさらに結びつけました。そして行動経済学を一般のビジネスパーソンにまで広めた立役者です。彼の著書『ナッジ』は世界的なベストセラーとなり、行動経済学を学術の世界から実務の世界へ橋渡しする役割を果たしました。
セイラーが特にこだわったのは、「ちょっとした工夫」で大きな成果を生む方法。同じ商品でも、見せ方や順番を変えるだけで人の選択は変わります。同じ制度でも、初期設定を変えれば加入率は跳ね上がります。こうした実証研究を積み重ね、行動経済学を「使える学問」として確立したのです。
ナッジが機能する3つの性質
セイラーの研究と私自身のコンサルティング経験から見えてくるのは、機能するナッジには共通する3つの性質があるということ。拙著『ポジティブアフェクトで幸せの仕組み化』でも、3つの観点を重要な設計要素として整理しました。それが手軽さ、魅力、そして社会性の3つです。
手軽
第一に、ナッジは「手軽」でなければなりません。人は面倒なことを避けるからです。これを行動経済学では「イナーシャ(慣性)」と呼びます。「このままでいいや」と現状にとどまる傾向のことです。
例えば、毎日のタンパク質摂取を増やしたいとします。冷蔵庫の取り出しやすい場所にギリシャヨーグルトとベリーを常備しておけば、スナック菓子を選ぶ手間より、ヨーグルトを取る方が楽になります。私自身、健康な食習慣を保つために実際にやっている工夫です。
魅力的
第二に、選択肢自体が「魅力的」に見える必要があります。ただ正しいだけでは人は動きません。選びたくなる工夫が必要です。
スターバックスのモバイルアプリにある「ゴールドスター」のステータス制度は、その典型例。新製品を一足先に買えたり、誕生日プレゼントが届いたりと、特典が魅力的に演出されています。「あと何スターでゴールド」と進捗が見えるのも、ゴールが近づくほど意欲が増す「目標勾配効果」を活かした設計です。
社会的
第三に、「社会的」な要素があると効果が高まります。「みんながやっている」とか「あなたと似た人がやっている」という情報は、人の行動を強く動かすからです。これは「社会規範」と呼ばれる行動経済学の原理に基づいています。
後ほど紹介するホテルのタオル再利用の実験は、この「社会的」性質の威力をはっきり示してくれます。
3つの性質は、行政の施策でも企業のマーケティングでも、共通して使える設計原則です。ナッジを考えるときは、3つを満たしているかを確認してみてください。
公共政策のナッジ事例
ナッジ理論は、公共政策の世界で特に大きな成果を上げてきました。代表例を2つ紹介します。
Save More Tomorrow(SMarT)プラン — 米国の年金加入率を引き上げた設計
「Save More Tomorrow」は「明日のために積み立てよう」という意味のプログラム名。略して「SMarT(スマート)プラン」と呼ばれます。設計したのは、セイラーと共同研究者のシェロモ・ベナルチです。行動経済学を実社会で初めて大規模に活用した事例として知られています。
米国の年金は、日本と違って「自分の意志で加入した人が受け取る仕組み」です。米国国勢調査局によれば、55歳から66歳の男女の5割が退職後の蓄えを保有していないというデータもあります。「積み立てたほうが将来の自分のためになる」とわかっていても、なかなか加入が進みません。伝統的な経済学では説明できないこの現象を、行動経済学は3つのバイアスで説明します。
イナーシャ(慣性): 面倒なことを避ける傾向。手続きが億劫で加入しない
損失回避: 「貯金が増える喜び」より「手取りが減る痛み」のほうが大きく感じる
現在志向バイアス: 「未来の自分」を他人事のように感じ、今の自分にお金を使いたがる
セイラーとベナルチは、これらのバイアスを「逆手に取る」設計を考えました。
まずイナーシャ対策として、「全員、企業年金に加入する」をデフォルト(初期設定)にしました。手続きなしで加入できる仕組みです。加入したくない人はオプトアウト(許諾しない意思表示)すれば外れられます。それでも大抵の人は面倒で、そのまま加入することになるわけです。
次に損失回避と現在志向バイアスへの対策として、「昇給したら積立率も自動的に増える」仕組みにしました。手取りは減らないので、抵抗なく積立額が増えていきます。
私は2013年当時、ベナルチの下でコンサルタントとして働いており、SMarTプランの成果を間近で見てきました。自動加入を導入した会社は、2003年の14%から2011年には56%まで上がりました。個人の平均拠出率も、4年で3.5%から13.6%まで上がっています。
「ちょっとしたことを変えただけ」で、人々の老後の蓄えがこれだけ変わる。これがナッジの威力です。詳しい行動経済学の応用については、行動経済学マーケティングの記事も参考になります。
臓器提供の国別比較 — デフォルト設計の威力
もう一つの代表的なナッジが、臓器提供の同意率に関する事例。私が共同研究をさせていただいたコロンビア大学教授エリック・ジョンソンらの調査が有名です。
「もしあなたが事故に遭って亡くなったとしたら、臓器提供をしますか?」というシンプルな質問。これに対するヨーロッパ各国の同意率は、驚くほど大きな差がありました。
オーストリア、ベルギー、フランスはほぼ全員が「提供する」。一方で、オランダは30%足らず、イギリスとドイツは20%に満たず、デンマークに至っては4.2%という低い数字でした。
すべてヨーロッパの国々であり、文化や宗教観の差では説明できません。理由はもっとシンプルなものでした。同意率が100%近い国では「ノーとチェックを入れない限り、デフォルトで臓器提供者となる」と定められていたのです。逆に、同意率の低い国では「イエスとチェックを入れた人だけが提供者になる」設計でした。
臓器提供は判断が難しい問題です。だからこそ、人はデフォルトのままにしてしまいます。書類のチェック欄一つの違いで、医療体制全体に影響するほどの差が生まれるのです。これが「デフォルト効果」と呼ばれるナッジの代表的な手法。詳しくはデフォルト効果の記事で解説しています。
ビジネスのナッジ事例
ナッジは公共政策だけでなく、企業のマーケティングや店舗設計でも幅広く使われています。代表例を3つ見ていきましょう。
ホテルのタオル再利用 — 社会規範メッセージで44.0%へ
カリフォルニア大学ロサンゼルス校のノア・ゴールドスタインらは、ホテルでのタオル再利用率を上げるメッセージの実験を行いました。3種類のメッセージを比較しています。
メッセージ1(一般的呼びかけ)「滞在中、同じタオルを再利用することで、自然への敬意と環境を守る姿勢を示せます」
メッセージ2は社会規範。「2003年秋の調査では、当ホテルの環境保護プログラムに賛同したおよそ75%のゲストが、滞在中、タオルを再利用しています」
メッセージ3はよりパーソナル。「2003年秋の調査では、この部屋(##号室)に宿泊したゲストのおよそ75%が、滞在中、タオルを再利用しています」
結果は次の通りです。
メッセージ1の再利用率: 37.2%
メッセージ2の再利用率: 44.0%
メッセージ3の再利用率: 49.3%
注目したいのは、文章を少し変えただけでこれだけの差が出ている点。「他の人がやっています」という社会規範を示すと再利用率が上がりました。「あなたと同じ部屋に泊まった人がやっています」とパーソナルにすると、さらに効果が上がっています。設備投資もインセンティブも追加していませんが、メッセージの設計だけで結果が変わったのです。
ドイツの再生可能エネルギー — デフォルトで契約数が10倍ほどに
ドイツで全国展開しているエネルギー会社が、再生可能エネルギーの契約に関する実験を行いました。新規契約4万1952世帯を対象に、ウェブページのチェックボックスのデフォルト設定を変えて比較したのです。
グループ1: 「再生可能エネルギー使用」のチェックボックスが選択されていない
グループ2: 「再生可能エネルギー使用」のチェックボックスが事前に選択されている
グループ1の人がデフォルトのままだと、再生可能エネルギーの契約をしないことになります。グループ2の人がデフォルトのままだと、契約することになる仕組みでした。
結果、再生可能エネルギーを選んだのは、グループ2のほうが圧倒的に多くなりました。契約数はグループ1の10倍近くです。
チェックボックス一つの初期設定を変えるだけで、消費者の選択がここまで変わります。デフォルトの設定権を持つ企業は、本気で動かしたい行動があるなら、それをデフォルトにしておく。ナッジを使ったビジネス設計の基本といえる発想です。
「本日のビール」と松竹梅 — 選びやすさを設計する
選択肢が多すぎると、人は選べなくなります。これを「選択オーバーロード」と呼びます。
例えば、クラフトビールを100種類そろえたバーを想像してみてください。集客時に「100種類あります」と謳うのは効果的でしょう。ところがいざ来店した客に「100種類から選んでください」と提示すると、ほとんどの人がフリーズします。
そこで使えるのが、ナッジの定番手法「本日のおすすめ」です。100種類のビールから1〜2本に絞った「本日のビール」や「人気ビール」を提示します。「気分爽快になりたい方は、このビールをどうぞ」と声をかけるだけで、客はいちいち吟味せずに済み、「いいものを選んだ」と満足してくれます。バーで友人と話しながらメニューを見るときは、システム2(じっくり考える脳)が働きにくい場面。だからこそ、システム1(直感)でも楽に決められるナッジが、消費者にとってもありがたいのです。
日本に古くからある「松・竹・梅」の3種類メニューも、同じ仕組みです。お寿司や鰻屋で、私たちはなんとなく「竹」を選びがちですよね。これは「おとり効果」を利用したナッジ。少し値段の高い「松」を置いておくだけで、人は「梅」より少し高い「竹」を選ぶ確率が上がります。古くから「おとり」の重要性が認知されていたのがわかる一例です。
選択アーキテクチャーとデフォルト効果 — ナッジを支える2つの概念
ナッジ理論を理解するうえで欠かせないのが、「選択アーキテクチャー」と「デフォルト効果」という2つの概念です。
選択アーキテクチャー(Choice Architecture)
選択アーキテクチャーとは、「選択の環境設計」のこと。「どういう選択肢を、どう並べて、どんな順番で見せるか」を意図的に設計することを指します。
例えば、レストランのランチメニューでBランチを売りたいとします。Aランチをあえて高くし、Cランチをとても安いけれど一風変わった料理にしておけば、客は自然とBランチを選ぶようになります。何を選んでもらいたいかを設計者が決め、その方向に客が自然に流れる構造を作る。これが選択アーキテクチャーの考え方です。
ネットフリックスのレコメンド機能、アマゾンの「おすすめ商品」や「人気順」フィルター、TikTokの自動再生も、選択アーキテクチャーの応用例です。「何百万のコンテンツがある」状態と「ユーザーが実際に目にする選択肢」は別物として設計されています。
デフォルト効果
デフォルトとは「初期設定」のことです。人は、何らかのデフォルトが設定されているとき、自分で能動的に変更しない傾向があります。これを「デフォルト効果」と呼びます。
先ほどの臓器提供の例も、ドイツの再生可能エネルギーの例も、SMarTプランの自動加入も、すべてデフォルト効果を活用したナッジです。
デフォルトが効くのは、人間の特性に理由があります。「変更するのが面倒」とか、「どっちでもいいときは現状を維持したい」、あるいは「気が変わったらどうしようと考える」という傾向があるためです。グローバルなテックの大手はデフォルトを変えるだけで、億の人たちの行動に影響を与えています。それほど強力な仕組みなのです。
選択アーキテクチャーを設計し、デフォルトを設定する。2つを組み合わせれば、ナッジは具体的な施策に落ちていきます。デフォルト効果についてはデフォルト効果で詳しく解説しています。
ナッジを使うときの注意点
ナッジは強力な手法ですが、使うときに気をつけたい点もあります。実務で取り入れる際の指針として、3つお伝えしましょう。
透明性を確保する
ナッジは「気づかれずに人を動かす」性格を持つため、悪用されると操作的に映ります。実務でナッジを設計するときは、選択肢の並びやデフォルトの理由を、聞かれたら説明できる状態にしておくのが基本です。透明性を保つだけで、ナッジは健全に機能します。
受け手の利益を中心に置く
機能するナッジと、機能しないナッジの分かれ目は「受け手にとってもメリットがあるか」。SMarTプランは、加入する従業員自身の老後を支えます。タオル再利用は、環境にも宿泊客の手間削減にもつながります。受け手の利益を真ん中に置いた設計でなければ、ナッジは長続きしません。
オプトアウトの自由を残す
ナッジは「強制ではない」ことが本質です。デフォルトを設定しても、別の選択肢に切り替えたい人は変更できる。チェックを外せば外れられる。この自由が確保されている限り、ナッジは選択アーキテクチャーの一部として正当に機能します。「自由を損なわず、無理なく望ましい行動を増やす」のがナッジの本来の姿といえるでしょう。
なお、ナッジは損失回避バイアスと組み合わせると、さらに効果が高まる傾向があります。詳しくは損失回避バイアスの記事もご覧ください。
まとめ
ナッジ理論は、強制せずに「軽くつつく」ことで人の行動を望ましい方向に促す行動経済学の考え方です。提唱者のリチャード・セイラーは2017年にノーベル経済学賞を受賞しました。SMarTプランの年金加入率向上、臓器提供の国別比較、ホテルのタオル再利用、ドイツの再生可能エネルギー契約。公共政策とビジネスの両方で大きな成果を生み出してきた手法です。
ナッジを支える中核にあるのは、「選択アーキテクチャー(選択の環境設計)」と「デフォルト効果(初期設定の力)」という2つの概念。機能するナッジには、手軽であること、魅力的であること、社会的であること、という3つの性質があります。意識して設計すれば、ビジネスでも日常でも応用できます。
ナッジは小さな仕掛けです。しかし、その小さな仕掛けが、億の人を動かしてきました。あなたの仕事や暮らしのどこかにも、ナッジで変えられる場面が必ずあるはずです。
FAQ
よくある質問
Qナッジ理論とは何ですか?
ナッジ理論とは、強制や金銭的インセンティブを使わずに、人々を望ましい行動に自然に導く行動経済学の考え方です。選択肢の見せ方や環境の設計を工夫することで、自然な後押しを生み出します。経済学者のリチャード・セイラーが提唱し、2017年にノーベル経済学賞を受賞しました。
Qナッジ理論の身近な例には何がありますか?
私たちの日常には多くのナッジが使われています。代表的な例として、ホテルでタオル再利用を促すメッセージ、年金の自動加入制度などがあります。レストランの「本日のおすすめ」、日本の「松竹梅」メニュー、ウェブサイトの初期設定(チェックボックス)も身近なナッジです。
Qナッジが機能する条件は何ですか?
ナッジが機能するには、手軽さ、魅力、社会性という3つの性質が重要です。さらに、受け手の自由を損なわず本人にもメリットがあること、別の選択肢を選ぶ自由(オプトアウト)が残されていること。これらが健全に機能するための条件となります。






